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仕事・夢・勉強・生活 いろいろしのいできた記録。今をしのぎたいあなたに。

父のホームページ作成 -アルゼンチン債のデフォルト-

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父親早期退職し、退職金をアルゼンチン債で飛ばす...

「実家の資金難、父親の仕事問題で悩んだことはありませんか。」なんて定型文で始まるようなさらっとした話でもない、家族は本当に絶望し落ち込んだ。

父親が会社にはめられて退職金を0にされそうになったり、裁判するぞと書面をだしてやっと手に入れた退職金を、野村證券に預けた挙げ句、アルゼンチン債がデフォルトになり、一旦は「諦めてください」という状態に。

父は、バイトに行ったものの…さてどうなったのか。

無くなった父の退職金

投資は余裕資金で行えとよく言うが、父は何を思ったのか、退職金を使ってリスクの高いアルゼンチン債を買っていた。昔、郵便局の定額をすすめてくれたあの父が。

買う方にももちろん問題はあるけれど、資金の性質を聞いていない野村證券にも落ち度はあると思う。

何はともあれ、退職金が飛んだ。家族の絶望と言ったらない。特に母は、今まで口を出さずに子育て、パートに勤しんでいたので無理もない。

心配した従姉妹が、父の資格を生かした仕事を見つけてきてくれた。

某有名専門学校の資格取得講座の講師だ。(ちなみにそれとは別に、夜間の高速道路に凍結を防ぐ塩を撒くという仕事もしていた...)

ちょっと大きな借金を背負ったくらいの勢いだった。

講師の仕事をもめて辞める

数年は、講師業をやっていたと思う。しかし、ある日突然、専門学校の関係者と揉めて辞めてきたと告げられた。

年齢的にも性格的にも、新しい人間関係でうまくやって行くのが困難だったのだろう。母と違って父は、人と交流したり長くうまくやって行くのが苦手のようだった。友達も少ないし、いる友達はめっちゃいい人ばかり。かなり、父を多めに見てくれているのだろう。(推測)

とにかくメインの仕事は無くなった。

会社をやるというので止める

しばらくして父から連絡があり「会社をやろうかと思う」と告げられた。その時の恐怖たるや!

今でも覚えている、東梅田からちょっと歩いた小さな事務所から出て、小声なのに激しく「何を考えているの!!」といい放った時のことを。

亭主関白で俺様な父に怒鳴ったのは、これが初めてではなかろうか。

会社なんかやって、大きな借金でも背負ったら返せるあてがない。私は年収750万くらいの仕事を辞めて、新しく手に職をつけ始めたばかりだったのだ。

辞めなければよかったか...

リスクの確認をしてGOを出す

また連絡があったので、詳細を聞いた。

まずは仕事の内容について。これは、以前やっていたと講師業だった。ノウハウはわかったので同じ事をオリジナルでやるというのだ。(倫理的にどーなの?)そんな無茶苦茶な話ではなさそうだ。

次に、リスクの確認。いくら初期費用がかかって、ランニングコストはいくらで、収益予想はどれくらいかを聞いてみた。やる気満々だったようで、どれも口頭で答えていた。金額はどれも微々たるもの、手に終えそうな雰囲気。

最後に、現在の準備計画についても聞いてみた。広告宣伝、生徒募集、規模など、どうするのか。チラシ配布の際のコスト、お願いする人材、配布場所に至るまで全て計画済み。年間100人くらいまでは面倒を見れると言う。東京、名古屋、大阪で講習を行い、あとは通信でも指導を予定していた。会場の目処もつけていた。

うーん、申し分ない。父よ、なんでアルゼンチン債なんか買ったねん。。。

最後に火の粉が飛んできた。Web修行中の私に、ホームページを作って欲しいと。

 

やらないわけにはいかないよね。。

ホームページ作成へ

当時習ったホームページの作成方法は、今のCSSレイアウトではなく、テーブル組みのものだった。

それでも、スケッチブックにロゴを書いてみたり、Fireworksでデザインを起こしたりしてみた。今となってはダサい、習ったばかりのエフェクト使ったりして。フォームのcgiは同僚に15,000円でつけてもらった。

ふふふできたぜ。父は、デザインに関して文句を言わないクライアントだった。そして、商売気のないクライアントでもあった。Twitterや、合格者の声、合格率の掲載なんてもっての他。と怒られた(なぜ...)。団塊の世代で職人気質だからだろうという勝手な分析。

しかしながら後でわかるが、それはもう大手にはない丁寧なアナログ対応、気になったら直ぐに電話するというスタイルで、中年受講者には感謝されているらしい。

勝手にプロバイダを変えてサイトが飛ぶ

悪気がないと言えばそれまでだけど。実家に「光ケーブル」系の営業がきて、「早い」「安い」みたいなことを言ったみたいだ。

何の気なしに現在のプロバイダを解約して、光ケーブルが導入された。そのプロバイダには会社のサイトが上がっていたんだ。

アクセスができないという父からの問い合わせで発覚したと思う。順位もよく、生徒さんからのアクセスも多かったというのに。

これもまた仕事中に怒りまくった記憶が。。なんか怒鳴るの慣れてきた気がする。何も知らない父はちょっとかわいそうだったかな。

とにかく、サイトを復活させなければならなかった。

現役の74才

さて、紆余曲折あった父の会社、旧型ホームページも、たいしたテコ入れをされることなく10年が経過した。サイトを復活させて10年なので、もっと古いのかな。

いまではこんな旧型サイト、恥ずかしいかぎりなんだけれど。
年間に50人くらいが限界という中で、あまり集客できてもしょうがないというのでそのままに。

大儲けはできないけれど、ボケ防止と暇つぶしと小銭稼ぎで、ちょうどいい感じになっているのではなかろうか。

1年に10万円くらいは利益あるのか。あったとして10年で100万円。スタート時はもっと激しくやっていたから、トータル200万円くらいにはなったのか。

 

デフォルトがなかったら発生しなかった作業や仕事。

あのお金は取り戻せないけど、やっぱり今でもくやしいけど、何かしらちょっとやってやったぞという満足感。

志しが低いなぁと思うけど、74才でここまでぼちぼちやってきた、すごいんじゃなかろうか。

父はワード入力もうまくなったし、そのおかげでネットでコミュニケーション取れるし。

節約を余儀なくされた母も悔しいだろうけど、おそらく性分だからまだ働いている72才。

 

いつまで続くのか、続いて欲しいし、楽して欲しいし、難しいから。私が何か一発逆転満塁サヨナラでFXでも...

しないしない。絶対そういうのは遺伝してるからな。博打はしないんだ。

コツコツブログ書くよ、まってろよ。

 

ということで、この案件は現在もしのぎ中。

 

倒れるまで歌う小学生

小学生の時に入ることになった、今では考えられないくらいの、結構スパルタな合唱団のお話。

自由参加型の合唱団に入れられる

私の小学校には「合唱団」というものがあった。クラスやクラブ活動、委員会などと別で組織された団体で、小学校4年生の途中から入団できた。

うちの小学校は、毎年、NHKコンクールやMBSラジオコンクールなどに出場するような、有名校だったみたい。
(ちなみに私たちの代は、NHKコンクールの時に自由曲で伴奏なしのアカペラ曲で挑んだことで後半音が若干下がり、予選で敗退。MBSのみ出場)

母のご近所ネットワークにより、私は無抵抗で入団。

今もそうだけど、何にしても断るのって難しい。まだやってみてもないから断りようがなくないか。
私は基本、何でも受ける。気が弱いからだと思っていたけど、もしかしてそういうのは先天的だったのだろうか…

私の課題曲は「わりばしいっぽん」でした

第84回(平成29年度) NHK 全国学校音楽コンクール課題曲
Nコン2017 テーマは「夢」

〈収録曲〉 小学校の部 「いまだよ」(同声二部) (作詞:宮下奈都 作曲:信長貴富) …

パート分けでアルトになる

小学生でも、周囲の物事が理解できるタイプは、合唱団の存在は知っていたはずであった。なぜなら学校行事の音楽会では、各クラスの出し物に加え、合唱団が花を飾るからだ。
普通はそういうのを見て、憧れたり嫌がったりするのではなかろうか。まぁ私はぼんやり生きてたのだけど。

言われて見れば低学年の時に、近所の怖い(私をからかうから)お姉ちゃんが歌っているのを見た記憶はある。

曲のタイトルは覚えていないが、ちゃんとしたメロディラインではなく、こちらもアカペラというか擬音語というか、

「ずどどど、すどどど、だだっ、だーーー」

みたいな歌い始めだった。その時のお姉ちゃんの顔は真剣そのもので、その集団は一丸となっていて、怖いとさえ思った。

思えばそれが合唱団を初めて見た時だったのだろう。「合唱団」として認識できてないので、それが評価にはつながらない…

母が前々から合唱団を推奨していたので入ることにしたが、とくに歌が上手い訳でもなく、消極的だったのでいじめられてばかりだった。
しかも、いじめっこ達も合唱団に入ると聞いて、「また何かされるなぁ。」と思っていた。

入団と同時に、ひとりずつ先生のピアノに合わせて声を出す「パートを分け」という儀式があった。その子の声域や声質を判断するのだ。

私は、「アルトの上」。声は高いので、てっきりソプラノになると思っていたが。
まれに六部合唱になるときがあって、その時は上から5番目になるパートを言い渡された。

そう言えば、いじめっ子たちは、仲良くソプラノだったので、それをネタに何かを言ってきてたな。

だからこれ買ったのだろうな
[まとめ買い] 「あると」の「あ」(フラワーコミックス) Kindle版 著者: 赤石路代
ピアノが大好きな少女あると。母の友人の推せんで東京の音楽学校へ入学することになり、ひとり上京してきた彼女だが・・・!?ミッチーが描くラブ・シンフォニー!!

合唱団の練習は厳しい

合唱団には、小学4年生の途中から6年生までが在籍しており、学年をまたいで朝練、放課後練が行われた。

朝練は毎日、手鏡を持参して自分の喉の奥を見ながらの発声練習をする。

発声練習の前にも、空気をお腹に入れて口から細く息を吐く「ブレス」という練習もあった。(「レ」を上げて発音する)

歌を歌うことはなく、発声練習が終わると速やかに各クラスに分かれた。

放課後の練習は週2回だったような。なにせ、コンクール前の練習以外は、毎日やることはなかった。

パートごとに分かれて曲を覚え、ある程度たったところで全体練習がある。

私は、いじめっこも上級生もこわかった。それに先生はもっとこわかった。小学生相手だけれど、目を剥いて怒る。

「何度言ったらわかるんだ、そこの歌いかたはそうじゃないだろ。遠くに森がみえているのか?」

そんな感じだ。上級生にしても友達にしても、はきはきしない私など、相手にしてくれる訳がなかった。

だから、だんだん練習をさぼるようになった。特にお咎めはなかったが、毎日、先生と顔を合わさないように気をくばったりして心苦しかった。逃げるように帰っていた。

 

転機となったクラス替え

5年生のクラスになり、あぁまたいじめの構図が変わるなぁと達観していたのだけれど。(4年生は学期ごとにいじめてくる子がちがった)

なんと!小学5年生には、吉田あゆみさんがいた。東叙子さんも松本真弓さんも。実在人物である。(これを見たらお礼がしたいので連絡をください。)

吉田さんが「あゆって呼んで」というところから始まり、私の小学生生活は劇的に変わったのである。

電車の中でスマホで下書きしながら、昔を思い出して泣きそうである。

 

彼女らも、合唱団に所属していた。先ほどの並びでいうと、ソプラノ、メゾ、アルトにそれぞれ所属しており、私はあずと一緒だった。

そう、私は彼女らに誘われて合唱団に再び行くようになったのである。久々に音楽室に入った時の気まずさ余所者感と言ったらない。

練習に出てないので曲はまったくわからず、適当に口パクでついていった。その時、やたら歌っていたのは「空駆ける天馬」同じように歌えたらどんなにか楽しいだろうなという、かっこいい合唱曲だ。(今聞くと、古いけど~)

歌えなくてもそれでも、楽しかった。話をしてくれる子がいるって楽しいのだなぁ。

彼女たちはどちらかと言うとキラキラしたグループに所属していたので、私はもういじめられることはなかった。

4年生の時のいじめっこたちは、いつの頃からか合唱団を辞めていたし。

 

激しい夏休みの練習

コンクールは秋だったのだろうか。夏は、クーラーのない教室で、ほぼ毎日のように歌っていた。

窓を全開にはしているものの、風がない日なんかは、すごく熱気がこもる。なにせ、30人以上が歌い続けているのだから。

私が倒れたのは、1度だけだったと思うけれど、多い日は1日に4人くらいが別室で横になっていた。

毎日のように、差し入れを持った母達が来ていたので、介抱してもらえていたけれど。

よく考えたら恐ろしい。当時は「日射病」という言葉はあっても、「熱中症」はなかったし、数人が気分が悪いと倒れていても、いつものことなのでそんなに気をとめてなかったのだ。

先生も細いのに無邪気に、指揮を取っていた。まぁだから、有力校だったのだろうけど。

 

今でも、何曲かは歌詞が頭に入っている。若年齢のときの訓練ってすごいな。

そして改めて、気は弱かったけどまぁまぁ私強いじゃん。

練習復帰してからは、ほぼ全部練習行ったしね。

 

そんなこんなで小学校も切り抜けたよ。

 

 

初めての仕事-船のホールスタッフ(後編)

前編で、「つづく」と書いてから、2か月以上も経っていることに驚いてる。

do-something.hatenadiary.jp

大丈夫だ、アクセスは少ない。しかし★をもらってしまったので書かねばなるまい。(私が重いわ)

さて、2か月の内に、あなたの仕事探しの目処はついただろうか。私はこの2か月、遊んでいた訳ではなかった。(遊んだけど…)

このブログを上手く成長させるために、全体的な見取り図を描いていたのだ。(試しにひとつ上げてみたけど、文体ちがうね...)

なんか文章を書く上でもやもやしていて、ブログで何がやりたいのか、どうやっていきたいのか分からなかったんだけれど、ようやくある方針を決めたので、更新しやすくやったところ。下書きなら70くらいはある。

ただし、はてなブログは下書き管理が難しいので、同じ失敗はしないように。メモ帳かエクセルに管理するのがいい。

オープニングが長い。ではつづきへ。

目次

  • ワイン販売グランプリ
  • 喜ばれるということ
  • ひそかな野望
  • 変な自信の芽生え
  • まとめ

ワイン販売グランプリ

これは、当時のバイトの職場「クルーズ船」にあるレストランでの販売を競うというものである。売店などは含まれない。

私たち、バイトや常備配膳たちは、各レストランの予約数によって振り分けられる。レストランは3つあり、当時の船では「サンマリノ」「カプリ」「ラセーヌ」と呼ばれていたかな。記載順に扱うコース料理の価格が高い。

さらにそのレストランで、個人のお客さんのテーブルを担当し、ドリンクからデザートまで提供する。多いときでテーブルは6つくらい。もし4名様ばかりだったらてんてこ舞いだ。

私は、「サンマリノ」専属のバイトだったので、少し有利だった。コース料理の価格が高いということは、ワインを飲む確率が高いからだw

ワイン販売グランプリでは、個人客がテーブルにて注文するボトルのみカウントされる。ワインの価格は関係なく、安くても高くても「1本」だったと思う。ハーフボトルの扱いはどうだったかな…これはちょっと忘れてしまった。

私はワインリストを眺め、ワインの特長・価格などを、レストラン業務の長いベテランおじさん(飼い犬の名前はコロ)に聞いたりしながら覚えた。

  • ブルゴーニュ(赤)
  • マルゴー(赤)
  • エルミタージュ(赤・白)
  • シャブリ(白)
  • ピースポーター(白)
  • マドンナ(白)
  • ロゼダンジュ(ロゼ)
  • 神戸ワイン(赤・白)
  • ハウスワイン(赤・白・ロゼ)

覚えているもんですね~20年以上も前なのに。

落ち着いた感じのお客さんで、ゆったりと観光を楽しんでいる方には、好みを聞いて、それぞれ特徴や産地、口当たりなどを説明。
そういう方は、白ならシャブリ、赤ならブルゴーニュだったような。

大人な人は辛口が好き説。

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若い方、せわしない方、地方から来たとアピールされた方は、神戸ワインやハウスワインをすすめた。
神戸ワインはあっさりしていて飲みやすく、お手頃。

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そんなこんなで、ワインの味も知らぬ小娘が、いそいそとワインをすすめ、夏休みは過ぎていった。

喜ばれるということ

テーブルを担当しているということは、ワインのサービスの後も、パンやお水、料理を出したりお皿を引いたりとサービスが続く。

誰に教えてもらったわけでもないが、ワインをすすめて注文いただいた方には、コミュニケーションの一貫として、

「ワインのお味はいかがですか?」とよく聞いて回っていた。結果、「おいしくない」という方はほとんどいず…

それは、さまざまな店頭アンケートや接客業でも使われている「おいしかった」を言わせる手法らしいが、当時の私には知るよしもなく。

お客様は、そんな会話をきっかけに、船のこと景色のことなど聞いてきた。当時は、バブルの余韻があって、バイト人数もそこまで厳しくもなく。
ゆったりと、楽しんで帰られた方も多かったかなぁ。

私は、ワインの数字とともに、その平和なコミュニケーションに味をしめていった。

 

↓関連する読み物を探してみたけれど、こんな感じ…ここまでプロフェッショナルではもちろんないw

www.nikkeibp.co.jp

ひそかな野望

そこまで目立つタイプでもなかったが、バイトの出席率だけは上位。
ワインの売り上げも徐々に頭角を現してきた。

そこで気になったのが同じバイトのN氏。あだ名は「チョハ」。その名の通り、猪八戒のような姿で、性格は温和で明るく、人好きされる人物であった。

そんな人物にさえ「彼さえ押さえれば1位になれる。」と思っていた私…
これがいうなれば「野心」というものではなかろうか。
不思議なことに、1位の景品なり報酬は覚えていない。純粋に1位を狙ってたはず。

他のバイター達のように、恋愛とか化粧とかして楽しくやっていればよかったものを。
(当時は化粧も眉毛の手入れさえしておらず、本音語りのK氏に、ほぼ毎日セクハラされていたww「おーいまゆげキラへんのか~」とか。さらにモテる友達にそれを庇われるなど)

まぁ、誰にも相手にされなかったことでできた野望なのかもしれないが。
そこに存在意義を覚えるようになるのである。

変な自信の芽生え

そんなバイト三昧の中、短大の2年次には、アメリカに行って2か月勉強することになる。(これはまた別の機会に言及)

行った先は、宿題の嵐で。
書くことも多ければ、覚えること、考えることも多い日々だった。

それは英語のレベルがどうとかそういうものではなく。英語圏の小学校に行ってるレベルくらいなのだが、日記にしてもロールプレイイングにしても、いちいち大変なのであった。

でも、なんだかんだで充実した日々。少し、日本を客観視することもできたのかもしれない。

高校まで、特に意志も希望もなく過ごしていた私は、ここらへんで、妙に自信が出てき始める。何もできないのだが、「それはそれでいいのだ」という、根拠のない自信。
それこそが、今まで足りな過ぎた自己肯定感だったのかもしれない。

「変な」というのは、私の今までの人生からしたら特に生まれる予定がなかったと言う意味であり、たいていの人は持っていたくらいの自己肯定感だったとは思う。

アルバイトを今までしたこともなかった私が、接客業を経て、何かをすすめて買ってもらうことの素晴らしさを知る。そんな、気持ち的なジャンプアップが、その後の就職活動に影響してきたのだろうと思う。

 

まとめ

非モテでも楽しもうと思えば楽しめる

人を喜ばすとやっぱり自分もうれしい

サービスを極めればおそらく充実した人生が送れる

バイトは社会の縮図。社会勉強になるし人生が変わる(かも)

(このブログは今後色々と展開するらしい!)

万年補欠がキャプテンになる

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学生時代に部活動に参加しましたか?
活躍できましたか?

私は、小さいころからバレーボールの選手になるのが夢で、小学校2年の文集では決意表明を行っていました。

しかし、中学はコートに入ることさえ叶わず、高校では同級生でレギュラーになれたのは1人だけ。そんな私が、社会人になったらキャプテンをやることになりました。

ただのキャプテンでもなく、小さな大会では優勝もするチームのキャプテンです。

今から、どうやってレギュラーになったのか。なぜ勝てるようになったのか。お話したいと思います。

上手すぎる後輩

高校3年の引退試合は後輩が出場しました。熱意の少ない後輩、でも上手い。私たちは負けまいと自主練なども行いましたが技術は到底及びませんでした。受験を控えているので、もう練習に来なくてよいと顧問に言われ、号泣していましたw

試合に出てもないのに引退となるとそれは大騒ぎで、人生で一番泣いたのではないかと言うくらい、息ができなくなる寸前まで泣きました。

この暑苦しいバレー熱。

しかし、そんな熱意があったにもかかわらず、大学へ行くとバレー部が強すぎたため入りませんでした。そしてバレー人生はもう終わったものと思っていたのです。

社会人チームへの参加

ひょんなことから(別の機会に書きたいと思います)、私はある会社の有志が立ち上げたバレーチームに勧誘されました。まったく見ず知らずの人からのネット勧誘だったので怪しさ満開だったのですが、私の他にも見学に来る人もいるし、チームのホームページもあるから安心と言われ、会ったこともない人の誘導で体育館に行きました。

そこではなんと、老若男女が楽しそうにぽこぽこバレーしてるではありませんか。

「なんやこれ、楽しい...」

高校バレーから9年遠ざかっていたものの、基礎だけはみっちりやってたこともあり、練習はさほど難しくありません。同じ時期に入った女友達とも気があったおかげで、私はこのチームに向こう8年ほど所属することになります。

声だし係としての使命

誰に頼まれた訳でもないのですが、高校の時の鬼コーチが、部員全員に役割を与えていました。

私の担当は「声だし係」です。

ボールが上がった、ミスった、お見合いになった、どんなアクションにも掛け声をかけて行きます。プレー中には、プラスになると思ったことは何でも叫んでよいと信じていました、バレーに関しては。

最初の頃は、なかなか声を出せませんでしたが、練習後のランチ会、チームのBBSなどで交友を深めていくと、声を出すのが当たり前に。

練習中の掛け声は活気が出ました。少し楽しいことを叫べば笑いもおきました。

社会人になってからは、一人で生活していたこともあり、会社にしがみつくように生きていた私は、社会人バレーとの出会いで救われました。このチームを盛り上げて楽しいチームにし、もっともっと新しい人に来てもらいたい、そう思って声を張り上げていました。

できそこないキャプテンの誕生

私が参加してほどなくして、女子チームができました。最初はチームメンバーのツテをたどって、実績のある人をキャプテンに据えて戦いました。

全戦全敗。それでもなんやかんやで楽しくやりました。

しかし女性メンバーは、結婚・出産などがあり、徐々に練習に来なくなってしまいます。だんだんと、私が頭角を表します。

毎週いるだけで親分のようになれるのです。

試合に出るには、キャプテンマークを付けた人が必要です。ユニフォームを新調する際にキャプテンを頼まれたのですが、私は実績もないので断っていました。では暫定でと言うことで引き受けたのをきっかけに、「できそこないのキャプテン」が誕生してしまったのです。年齢にして30才、若いとは言えないスタートです。

週に1回練習していても「できそこない」たる所以は、経験と実績がないことからくる自信のなさだと思います。試合の日の朝には必ずお腹を下しました。怖くて試合相手もまともに見れなかったように思います。

B級ネットバレーボール大会での出会い

関西では社会人チーム同士の交流が盛んで、練習の行き来、試合メンバーの貸し借り、交流チーム同士のミニ大会などがよくありました。社会人チームの存在すら知らなかった私は、所属チームに十分満足していたこともあり、他チームとの交流はほとんどありませんでした。

そんな中、ある出来事がきっかけとなり、他チームへの扉が全開になりました。
それが「B級ネットバレーボール大会」です。バレーボールマガジンにも掲載されるほどの規模で関西を中心に行われました。

当時、「B級ネット」というサイトは社会人チーム界隈ではよく使われていたサイトの1つです。バレーチームの紹介、メンバー募集、地域のチーム検索など、mixiコミュでできそうなことをもうちょっと大規模に行っているイメージです。
「B級ネットバレーボール大会」というのは、そこに登録しているチームが集まって行う、B級ネット主催のバレーボール大会でした。

私は、チームを代表してその打ち上げに参加、そこで知り合った友人をきっかけに、所属チームの垣根を越えて、他のチームにもどんどん顔を出すようになりました。

そこで知り合ったチームが、今も存続している練習チームです。

練習チームへの参加

その練習チームというのは、週に1,2回、2時間程度、試合形式はなしで、ひたすらレシーブ練とスパイク練を行い、交友を深めることも名前を知ることもなく、帰っていく、そんなストイックチームでした。
通常あるような、自己紹介や練習後の食事(飲み会)はほとんどありません。

私は感動しました。すごくないですか?すごいですよね、本当にすごい。

もちろん、今のチーム練習は楽しいけれど、技術の向上どころか体力の維持もままならないところがありました。(30代だったし)そう思った私は、この練習チームで技術と体力をつけ、何よりも「人より練習したから大丈夫」という自信をつけることに決めました。

気合いだけは負けない

練習をたくさんすることで、またバレー友達が増えることで、自信のなかった私は、チームメイトの前でも、試合相手の前でも少し堂々とできるようになりました。

対戦チームとも顔見知りになり、更衣室で感じていた訳のわからない恐怖感がなくなっていったのを覚えています。お互いのチーム事情なども相談しあうようになり、ますます敵が怖くなくなりました。

練習時だけだった声出しが、試合でも出きるるようになってきました。相手をこてんぱんにする技術はなかったので、「絶対勝つよ」「弱い相手に合わせるな」と気合いと勢いだけは負けないキャプテンになっていきます(自分で言う)。

社会人チームの運営は難しい

趣味でやっている社会人チームですが、運営の問題は様々ありました。

趣味だからこそ「楽しく」なのか「勝つため」なのか、みなが悩むであろう永遠のテーマにも取り組みました。また色々な世代、技術レベル、考え違いの人がいるため、新しくできてもつぶれていくチームも多かったです。

一番大変なのはメンバー集めなのかな。メンバーは年を重ねると練習にこなくなるため、常に新しい風を入れる必要があります。その中でうまくポジションをわけあってコンビネーションを合わせる必要もあるし。1度練習に来ても、楽しくないと二度と来ないし、ある程度の人数がいないと楽しくないし。

私の所属していたチームは、現在も存続する結成から15年を越える歴史のあるチームです。キャプテンはおそらく現在5代目。おそらく今もいろいろな問題を抱えながらやっています。

私が所属していた時代にも、いろいろな問題はありましたが、その問題を含めたとしても楽しいメンバーに恵まれ、毎週ほけほけと遊びながら練習していました。

チームメイト様々

夫の転勤で引っ越してきた後輩もその楽しいメンバーの1人です。上司から「バレー経験がある子が入ったよ」と耳打ちされ、その足で会いに行き「今週練習あるからおいで」みたいな勧誘(パワハラ)をしたのが始まりでした。その子を始め、他のメンバーの紹介で連れられて来た子も、チームの雰囲気が良いと継続して参加してくれるようになりました。

もちろん、そりが合わないメンバーもいました。本当に間接的によく戦いました。時に直接…それでも我々はチームが好きだったので共存するために住み分けました。お互いに相談することなくそれぞれの役目を果たすようになり、それを他言していることを知り笑ってしまいました。「敵もなかなかやるのう」

ジャンプみたいですが、今ではすっかり友の中の1人です。(腹心の友でもないが)

初心者から春高バレー経験者まで。めちゃ好きな人から厄介な人まで。多くの人を受け入れるチームカラーが、多くの人材を集める力となったのだと思います。

私はいつもキャプテンマークを付けて声を出すだけなんだけれど、エースポジションにはいつも頼りになる誰かが居てくれました。本当にありがたい。

その頃には、自然と「勝ち癖」がついていて、チーム全員が他チームを見て「●●をどうやったら勝てる」など言えるようになっていた気がします。点数を取るパターンもできていたように思います。

その風景は、そのチームから10年ほど離れた今も色あせることはありません。

つまらない持論ですが…

ここで1つくだらない持論ですが、「いけいけキャラ」と「癒し系キャラ」は半分づついないとグループが成り立たない、なんなら試合も成り立たない、ということを言いたいです。凸凹というかSNというか、身をもって体験した持論です。

チームが非常にいい状態の時に「いけいけキャラ」だけを集めて戦い、1度だけ無残な負け方をしました。忘れることができないくらい悔しかった。

チーム内に穴など、守るべきものがあった方が強くなれるといったところでしょうか。それは驕りかな。いつも見えないところで癒しの人たちに支えられていたのでしょう。

アドバイスできること

長くなってしまいました。ここでアドバイスできることは次の通りです。

  • 好きなことは宝。機会に恵まれたらぜひやってみて。
  • 良いと思ったことは率先してやろう。ちょっとくらい浮いてもいい。
  • 無理と思っても、なんでそう思ったか考える。そして対策。
  • 何にでも困難はつきもの。それ込みで楽しんでみて。
  • どんな仲間も大切に。それぞれにいいとこあるはず、そういう心が自分を育てるよ

 そんなこんなで、バレーキャプテンも何とかしのぎましたよ。

そこを何とかしのいでください(目次)

当ブログは、
「仕事・夢・勉強・生活」を題材に、今をしのぎたいあなた に贈る、
ライフハックブログです。

「しのぎ」【凌ぎ】

  1. しのぐこと。苦しい(ぐあいの悪い)事を我慢して切り抜けること。
  2. 《多く「お―」の形で》 食事の正規の時刻までの間(ま)に合わせに食べるもの。

宗教とかマインドコントロールとかそういう高度な技術は使わず、

比較的泥臭い手法で「いろいろしのいできた記録」を綴っています。

 

執筆はぼちぼちですが、内容はだいたい決まっているので目次だけ記載します。


目次

  • そこを何とかしのいでください(目次)

(小学校)

  • 今でいういじめの日々
  • 地域のリーダーとして/弟の存在
  • 倒れるまで歌う小学生

     

    do-something.hatenadiary.jp

  • エレクトーンとの出会い/別れ
  • 小学校の新聞委員
  • スイミングスクール考

(中学)

  • バレー選手になる夢、先生の言葉
  • 絶対に受からない(by担任)高校受験

(高校)

(短大)

  • 初めての仕事-船のホールスタッフ(前編)

     

    do-something.hatenadiary.jp

     

  • 初めての仕事-船のホールスタッフ(後編)

     

    do-something.hatenadiary.jp

     

  • 行ってみた日雇いバイト
  • 野球バイトーきれいな姉御たちー
  • ホテルの朝食バイトー13.5時間労働の日々ー
  • アメリカで文章の書き方を習うーMr.グリフィスの授業ー
  • アメリカでちょっとミュージカルを踊る
  • 一応取った自動車免許ー半クラで1周ー
  • 証券会社との出会い

(1.証券会社時代)

  • 大阪で就職ー誰にも営業する姿は見せまいー
  • 気が大きくなって1年目に借金が100万
  • ビーズブーム到来、藤久など
  • 証券会社で総合職になるー失恋の痛手よりー
  • 社会人バレーとの出会いーご近所さんNet-
  • mixi時代とそれに変わったSNS
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初めての仕事-船のホールスタッフ(前編)

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はじめて仕事をするにあたって

あなたは今、何の仕事をしていますか?どうやって決めましたか?

夢とか希望、やりたい業種・職種がはっきりしてる人はほんとうらやましい。次に何をすればいいか、人よりちょっとわかってるから。

小学校、中学校、高校と。なんとなく生活をしていて、切羽詰まったこともなかったので、まったく将来の職業について考えてこなかった。
習い事、部活動をして、試験前には勉強をして、寝る。それだけの学生時代だったなあぁ。
そんな私でも、今は転職3回、職種3つ目のベテランの社会人となることができた。
もしあなたが今、どんな仕事をしたらいいかわからなくても、たぶん大丈夫。世の中には、わかりやすい仕事以外にも、よくわからない仕事もたくさんあるのだ。
興味を持ちさえすれば、どんな仕事もいずれ、血となり肉となり、あなたのものになるでしょう~

目次

  • 仕事ってどんなもの?
  • 人の真似でバイトを決定
  • 急な環境の変化、しかし友達ができた
  • バイト経験で自分を発見

仕事ってどんなもの?

ブログを始めるにあたって。
最初の文章が仕事だなんて、私はそんなに仕事人間だったのか…

さて、みんな何を基準に仕事を選んできたのだろう。
夢とか希望の職種目指して一直線の人もいるだろうけど。

私は、そのへんによくあるような家に生まれ、義務教育を受け普通科の高校に行き、18才の割りに同級生と比べても結構無知で、それを問題とも思っておらず、両親になにかを相談することもなく、淡々と短大が始まるのを待っていた。世間に疎い、ある意味ピュアなw女であった。

幼稚園・小学校時から、具体的な希望がなく、お誕生会で発表させられた将来の夢「お姉さんになりたいです」すら友達の真似。

家庭環境にも当時でいう看護婦や保母さんなど専門職などなく、祖母は祖父を手伝う自営、母は点々としたパートアルバイトであったこともあり、これといった職業を認識して生活をしていたことがない。

普通科を卒業をして、中学時代ちょっとくらい成績の良かった語学の学校に進むことにしていた。(高校ではひどい成績だったのに!)なんとなく、大学に行けば自動的に道が開けるような気さえしていた。まだ就職氷河期が言われておらず、大した危機感もなかったし。

 

人の真似でバイトを決定

初めての仕事は、高校を出てからのアルバイト。「幼馴染がアルバイトをするらしいよ、あなたも行ってみたら」という母の何気ない一言からスタートしている。母なりに何も考えてない、自分から行動しない娘を心配していたのだろうか。

そこまで仲のいい幼馴染でもなかったけど知り合いが居る安心感と、「船」でのウエイトレスというのが目新しく、さらに事前研修があるというので安心して、内気な私がなぜか接客業をするという流れになった。そんな人前に出る仕事するなんてね。

どうやってアルバイト応募をしたのかも忘れてしまったが、勢いでクルーズ船のオープニングスタッフにもぐりこんでいた。

このようなクルーズ船:ルミナス神戸

オープニングスタッフというのはありがたい。事前に時間を割いてアルバイト達を教育してくれるのだ。(当時は非営業期間があったので、そのオフの期間に集中研修があるのだ。しかもバイト料が出るwまだバブル後半だったからかもしれない)

見るもの聞くもの全て初めての中、一通り研修を受け、できないなりにホールに立ち、食事を運び、数か所の名所や船の特性を覚え、観光案内のようなこともした。
緊張してレジは打てない、ジュースはお客さんにかける、持ち回りのスープは重くてぐらぐら、肉は落とす、それでもなんとか、なんとか...

社員と常勤配膳は恐かったが、バイト仲間は優しかった。(みんなもやらかしているから)

 

急な環境の変化、しかし友達ができた

船という閉鎖的な特殊環境で、バイト仲間とは家族のように仲良くなり、言いたいことも言い合い、相談し、のちにつながる友人も数人ここでできた。
もちろん、常勤配膳からのいびり、社員のバイト贔屓、バイト同士の喧嘩、男女関係のごたごた、夜遊びが過ぎることへの家族からの怒り、本当いろんなことがあったのだけれど。

それをネタにバイト同士で連携を取り合って切磋琢磨していたような。

私は、しぶとい。本人はそう意識してなかったけれど、しぶといんだと思う。

可愛いげのない私であったので特別重宝されることもなかったけれど、腐ることもなく、モテる友達を横において「お前が邪魔やねん」呼ばわりされても、なぜか辞めるという選択肢はあまりなかった。昔いじめられていた経験があるので、耐性はあったのだろうか。

特殊な閉鎖的な環境に、幼馴染が早期に離脱するも、こちらは辞める気配はまったくなく、それなりに(ロマンスなどはかすりもしないまま)ほけほけ2年は余裕で過ぎていった。

男女問題は巻き込まれないほうが続けやすいし、仕事を覚えてしまえばあとは流れ作業も同じ、お金稼ぐって楽しいではないか。

高校まで、まともに友達ができなかったことも大きいだろうね。仕事を介していると、自ずと人となりがわかり、自分の感性に会う人が見つかりやすい。私に近い人(同性ですよ)が職場にいる、それだけで、辞める選択肢はなかったのかも。


その船の中で、夏休み期間に始まった社員さんの気まぐれ「ワイン販売グランプリ」が、その後の私の職種に大きく影響してくるのである。

 

あっさり甘く、女性にも男性にも受けがよい。地域の名産。
クルーズでよくおすすめしたワイン:神戸ワイン(白)

つづく